キュアアースはヒーローに憧れるか否かのリトマス紙

ヒープリを考える上で、42話の花寺のどかは何を選んだのか。また直後の43話でキュアアースの自己犠牲による活路が何の意味を持つのかということについては常に物語を紐解く上で避けては通れない描写だろう。花寺のどかについては前回ヒーローを諦めたと説明した。今回もそれを補強する筋、キュアアースこそがヒーローであり、逆説的にプリキュアがヒーローでないことを裏付けるもの。

よりメタな視点で表現するなら女児がヒーローとプリキュア(グレース)どちらの生き方に憧れ、選ぶかというリトマス紙的な存在であると考える。

このことについてヒープリが描いてきたこと、キュアアースの特徴について話した後にまとめる。また、この主張のモチベーションは42話における花寺のどかの選択に関する描写と直後のキュアアースの描写に依存していること、つまり勘ぐりが多分に含まれることを断っておく。

 


ヒープリが描いてきたこと

ヒープリにおいて繰り返し描かれるのは無茶することの意味のなさについてである。

このことを端的に表すエピソードが11話で、複数ビョーゲンズが現れたことに対し、皆で協力して近くの弱いメガビョーゲンズから順に倒していくことを提案する。

しかしながらグレースは思い入れのある場所を一瞬でも放置する選択ができず、単独で守ることを優先する。

その結果、苦戦し、仲間の手を借りることで窮地を抜け出したグレースは時には救うべき順番を決めて3人で力を合わせることが重要と反省するエピソードとなっている。

この一人で無茶をする危険性は19話,29話でも繰り返し描かれており、前者では風邪をひいた責任から駆け出したものの役立たずのラテ様が、後者ではダルイゼンを生み出した責任感から突っ走るものの迷惑をかけるグレースが描かれる。

そのような積み重ねの元、42話においてダルイゼンを救うことを理想としながらも拒絶する着地をすることになった。プリキュアについてこれだけの描写ならダルイゼンが救われる可能性は一切なく、それは時に厳しい世界にうつりうるだろう。しかしキュアアースがうまくその読み方に疑問を持たせる役割を担っている。このことについて考えていく。

 

キュアアースについて

ではキュアアースとは何者だろう。キュアアースはテアティーヌの願いによって誕生した先代プリキュアをモチーフにした精霊であり、19話,20話といったように一人でメガビョーゲンを圧倒する戦闘能力をもつ。また43話においては自己犠牲による突破口をみせた。

これらの描写はもしグレースがキュアアースほどの実力があるのなら11話の事態にならなかったという視点を与え、43話における自己犠牲を選ぶことができる描写はキュアアースほど強ければダルイゼンを救うことができたという視点が生まれる。

もしキュアアース4人で構成されたヒープリならどのような物語になっていただろうか。それはきっと従来のヒーローものみたく、プリキュアがすべてを解決し、ダルイゼンも救ってみせるアツイ話だっただろう。そのような想像の余地を限りなく近くに接続しているのがキュアアースの描写のミソではないかと考えている。

 

結論

キュアグレースの決断はとても励みになりうる。救いたかったという気持ちにはキュアアースという強さが答えに映る。ヒープリは各個人の選択、理想と現実を検討しつづけることを応援するやさしさに満ちた作品なのではないか。

 

 

オチ何?